全景を捉える 旅 on the road

海士で(最近)宮ちゃんこと宮崎雅也くんと呑み語らった時のこと。彼が何者であるかは、彼のフルネームではもちろん、「海士町」「Iターン」でググれば、すぐに発見可能な有名人なので割愛する。けれど、彼は、云うまでもなく、とてもユニークな存在だ。そもそも、発想が面白い。から、話してるのが(とても)愉しい。ので、(あくまで)結果的に広く知られる存在になっているのだ、と、至極当然の因果関係を改めて認識したりする。
彼が旅でアフリカ(のどの国だったかは酔っ払っていて覚えていない)を訪れた際、到着するや否や身ぐるみ剥がされた(らしい)。お金もパスポートも失った彼は、当局で盗難届手続きの行列(?!)に並びながら気がついた(らしい)。その行列には国内外無数の人が並んでいる。そして、金目のモノを盗まれてしまった後は皆同じで、肌の色を問わず、もはや襲われることはない。即ち、彼の地で人を分け隔てているのは、国籍ではなく、人種や宗教でもなく、お金(目のモノ)を所持しているか否か、即ち、物理的経済格差(を背景にした精神的傲慢さ)だけである、と。それが(盗難により)等しくなった後は、自分も周りと等しい存在になった(なれた)んだ、と。
そして、親に頼んで送金(日本の地方銀行→アフリカ某国の銀行)してもらうまでの数日間、彼は中華料理屋で皿洗いのバイトをした(らしい)。すると、賄いを食し安宿に泊まることで、どうもお金が貯まることに(も)気がついた。これなら生きていける。使用言語も生活慣習も違う、わからないこと知らないことだらけ、な環境でも、自分(人)は生きていける、と。
そんな(?)宮ちゃん、島では決して取替えの効かないユニークな存在であり、日々、地に足のついた暮らしを(新卒Iターン後、もう7年も)おくっているのだけれど、当の本人は、「旅の途中です」と(あっさり)云う。別に、他の場所へ引っ越す予定があるわけではない(最近、奥様と新居生活をはじめたばかりだ)。海士から離れたいわけでもない(と思う)。海士、という土地を愛し、海士、という土地を愛する人を愛し、その土地に在る生命を慈しむ(実際、宮ちゃんは、その食材のほぼほぼ全てを自ら作る。あるいは釣る又は捕獲する)。そうした土地に根ざした暮らしに在りながら、自分はあくまで旅の途中に在る、と云う(と微笑む)。

往復書簡でお馴染みの中渓宏一くんは、「地球上の何処でも生きて行ける人間になりたい」と云って憚らない。生活そのものがキャンプ(ピクニック?)的であり、そもそも旅人である。がしかし、彼は、その行く先々、その土地その土地を(かけがえないモノとして)愛する。南アフリカで過ごせば南アフリカの大地を、パタゴニアに暮らせばパタゴニアの大地を、阿蘇に身を置けば阿蘇の大地を、北海道に帰れば北海道の大地を。そう、その土地々々に、常に真摯に向き合い、常にその土地で「生きる」ことを念頭に置く(そう云えば、海士に遊びに来た際も、「ここで暮らしたい!」と本気モードで云っていた。そう、あの目は、あの云い様は、かなり本気だったはず)。
そうした宏一くんの振舞いにしろ、そして宮ちゃんの発想にしろ、つまりは、その土地に根差す(ことを想定する)ことと、旅の途中に在る(と認識する)ことは、決して矛盾しない両立可能なこと、ということだ。より積極的にいえば、両者は表裏一体な存在(感覚的思考)、ということだ。このことは、僕が、島の高校や塾で高校生に向きあう時に感じる充実感と、東京他の大学・大学院で講義をする際に感じる違和感、その(断絶的)差異を説明する。前者は、地元の学生はもちろん、本土からの島留学生であっても、島の諸産業の持続可能性、島の暮らしそのものの持続可能性、そこに(相当な)リアリティを以って(相当な)本気度で臨んでいる。後者は、地域や地域ビジネスにおけるコンサル実務的あるいは研究的知見の一つとして(都市側から)眺める。ので、それら両者の認識の程度に差異が生じること自明だろう。このことは、宮本常一の綴る文言と昨今の地域やコミュニティを語る諸論との差異に等しい。いずれも、その土地その土地に向き合う姿勢を背景とした、「全景(omniscape)」と「風景(landscape)」としての差異、管啓次郎氏の言葉で綴れば、「山川草木菌類と虫たち獣たち魚や鳥たちすべて、それに加えて人工物、そして過去数千年の人間が必死にその土地を理論化しようとしてつむぎだした神話という言語的次元さえ加わったもの」としてのオムニスケープと、「きれいに客体化された対象」としてのランドスケープ、そうした(それほどの)差異が在る。のだから。

最後に、いま一度、管啓次郎氏のテクストを拝借する(はじめて綴ったエッセイで既に拝借している)。「旅の可能性を考えない定住者に現実を変える力がないのと同じく、定住の意味を知らない放浪者は頽廃に沈むだけだ」。宮ちゃんは、まさに「旅の可能性を考える定住者」であり、宏一くんは、「定住の意味を知る放浪者」であろう(一般的解釈を他所に、宏一くんにおいて「放浪者」があまりに似合う表現がため、ついついほくそ笑んでしまう)。いずれも、その土地々々に全身で向き合い、その土地々々の全景を捉えようとする、旅人である。僕はそんな旅人が大好きである。

画像出典:http://1ms.net/love-on-the-road-233368.html