愛と幻想の Shotgun

「確かなものは、覚え込んだものにはない。強いられたものにある」という言葉にはじめて触れたのは、僕がアメリカンフットボールに出会った高校入学間もない頃だった。そのはじめる何かを詳細に(どころではないほど)調べる癖(気質)のある僕は、四半世紀前も、当時(そしてその後暫く)国内最強だった日本大学フェニックスの在り様を入部の前後で調べたりする。そこで同チームを率いる篠竹幹夫監督の文章やインタビュー記事に触れ、先述した小林秀雄の言葉を同監督が(好んで)用いるシーンに衝突した。
篠竹監督は、犠牲・協同・闘争の精神の下、全身全霊フェニックスのフットボールとともに在り続けた闘将であり、1978年からの甲子園ボウル5連覇(僕が高校2年生の時から甲子園ボウル3連覇)を含め、勝率9割を誇った名将(それは、来日した米国フットボールコーチに、「アメリカだったら大統領になれる」と驚嘆されたほど)。自らがフットボールに命をかけ、選手もそのレベルにまで引き上げ(させ)る、ということを、日々、徹底的に実践していた。がゆえ、当時のフェニックスは、他チームとは別次元に強く、そしてなにより美しかった。高校生の僕は、なにがどれほどに美しいのか、なぜに美しいのか、美しく想えるのか、がわからなかったけれど、試合でのプレーはもちろん、入場、試合前のストレッチや練習、終了後の挨拶、そして退場、その姿勢、そのすべてに「美」を感じた。それは、古き良き(見方によっては、悪しき)体育会的なモノとは一線を画した、当然に、昨今のスポーツ科学における効率追求的なモノとも(やはり)一線を画した、「美」的ななにかがそこに確実に在った。

篠竹監督は、フェニックスというチームを勝利に導くその先に、いつの日か本場アメリカのチームと対峙する、そして勝利する、その絵姿を夢想していた(に違いない)。そして、自身の身体的精神的経験の下、体格で劣る日本人が互角以上にアメリカと渡り合うために用いたのが、そう、「ショットガン」だ。(ここで「ショットガン」のなんたるかは割愛するけれど)国内最強の名を欲しいままにしたフェニックスの「ショットガン(オフェンス)」は、常に、海の向こうの体格に秀でた男たちとの闘いを仮想していたのだろう。がゆえ、篠竹監督は、タッチダウンした後のガッツポーズひとつ許さない。常に、そして徹底的にプレッシャーを掛け(続け)、選手の潜在能力を発揮し尽くさせる、そして限界をも超えさせる。でなければ、体格で劣る、競技人口も歴史も(人気も)劣る我々が本場アメリカに及ぶことなど夢の又夢、と。つまり「ショットガン」とは、フェニックスが、あるいは、フェニックスが主体となる日本代表が、いつの日かアメリカ代表と闘うための、魂の込められた唯一の思想であり姿勢、であった(に違いない)。そうした「強いられたもの」の表象としての「ショットガン」は、攻撃力に優れたオフェンスの一形態を遥かに超えた、「確かなもの」だった。がゆえ、このパス・オリエンテッドな攻撃スタイルは、本場NFLで49ersの名将ビルウォルシュが「ウエストコースト・オフェンス」として確立、以降、隆盛を極めているに関わらず、いまでは、NFLはおろか国内の社会人・大学チームの多くが用いる攻撃スタイルであるに関わらず、当時のフェニックスの「ショットガン」は、それらとは決して同列に(でき)ない、全く異なる思想表現であると、僕は感じ(続け)ている。

そんな(単なる懐古主義だといわれそうな)想いを抱きながら、冬の入りの休日、いつもの(本を読み愉しむ)カフェでコーヒーをテイクアウトし、久しぶりに、関東大学アメリカンフットボールのリーグ戦へ足を運んだ。本当に久しぶりに。ブロック優勝を賭した全勝対決、日本大学フェニックスVS明治大学グリフィンズは僕の高校時代の黄金カードだ。が、そこに、かつて在った「美」はもはや存在しない。試合は、フェニックスの「ショットガン」が爆発、スコア59−14の大勝。シーズン7戦全勝、総得点423点に対し総失点31点という、圧倒的強さを誇っている、に関わらず。そこに存在したのは、パス・オリエンテッドな攻撃スタイルとしての「ショットガン」であり、同スタイルをクレバーに展開する、攻撃力に優れたチームだった。

村上龍「愛と幻想のファシズム」の中で、鈴原トウジに片山敏治が語る(僕の大好きな)シーン。「なるほどね、あなた方は実に愉快だ、ファシズムか、面白い、だが、あなた方のは、幻想のロマンティックなファシズムだな、うん、そうだ、愛と幻想のファシズムだ」。グローバル企業による経済のみを価値軸とした世界的統制、その圧倒的な力を前に、あらゆるモノコトがシステムに組み込まれ(てい)る、その圧倒的な現実を前に、発露した(鈴原トウジの)本能。に「強いられたもの」「にある」「確かなもの」。愛と幻想のファシズム。
かつて在った幻想のロマンティックな「ショットガン」は、「強いられたもの」が失われつつあるいまここに、「確かなもの」として在れはしないのだろうか。そんな感傷を他所に、小林秀雄の先の言葉はこう続く。「強いられたものが、覚えこんだ希望に君がどれ程堪えられるかを教えてくれるのだ」

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