130㎝から眺める social inclusion

ある日、僕は、高さ130㎝、横幅60㎝、縦幅100㎝、ほどの、小回りが利かない世界に、居た。見たことのある見馴れない景色の中に、居た。

ある朝、僕は、珈琲が飲みたくなった。確か1FにナショナルチェーンのCoffeeShopがあったな。ここ(10F)からそこへ買いにいこう。すると、広いはずだった廊下は、人がそこそこに行き交い、モノがいろいろと置いてある、ことに気がつく。ふう。なんとかエレベーターに辿り着く。エレベーターは4機。そのうちの2機は狭い(小型の)モノなので、広い2機にのいずれかにしよう。でも、狭い方には人があまり乗ってない、のに、降りてきた広いエレベーターは、背の高い人たちでいっぱいだ。乗れない。しばらく待っていたら、僕がギリギリ乗れそうなスペースを発見。勇気を出して、乗る。すいません。時間かかるし、小回り利かないし。すいません。みんなムスッとしてる(ように見える)。乗り降りに邪魔になっちゃって、ごめんなさい。なんとか終点の1F に辿り着く。そうか、後ろ向きに出ないといけないのか。しまった、バックしたことがない。大丈夫かな。ゆっくり。全員が降りた最後に。ゆっくり。あれ、上手くいかない。壁にぶつかって、元の真っ直ぐな状態に戻らない。どうしよう。1F から乗ろうとする人たちが待ってる。たくさん。どうしよう。あれ。スーッと、ゆっくりと身体が後ろに動く。あ、待ってる人のひとりが、僕を後ろから引いてくれたんだ。ありがとうございます。ありがとうございます。母ぐらいの歳格好の人が優しく微笑みながら会釈する。ありがとうございます。本当にありがとうございます。ふう。なんとかエレベーターを降り、1F に辿り着く。もう、部屋に戻ろうかな。いやいけない。勇気を(一度、出しちゃったので)振り絞って、広いはずだった廊下を移動する。すると、そこにCoffeeShopがあった。ホッ。しかしカウンターが高い。僕のこと、見えてるのかな。あ、はい、ブレンドのLサイズをひとつ。あ、はい、テイクアウトで。あ、はい、320円ですね。あ、いいえ、なにもいりません。あ、できれば、ビニール袋に入れてもらえますか。すいません。あ、はい、ありがとうございます。ふう。なんとかお目当てのモノを手にする。そうか、出口は後ろか。でも、後ろには列ができてる。みんなイライラしてる(ように見える)。バックはとても無理だ。前に進んでどこかで旋回しないと。でも、そんなに広いスペースはない。小回りが利かないので中回りで大丈夫かな。よいしょ、よいしょ。あれ。スーッと、ゆっくりと身体が旋回する。席に座ってた人(お客さん)のひとりが、僕を後ろから回転させてくれたんだ。ありがとうございます。弟ぐらいの歳格好の人が目を合わさずに会釈する(ちょっとだけ顎をひく。照れてるのかも)。ありがとうございます。本当にありがとうございます。ふう。なんとかCoffeeShopをでる。横にコンビニがある。お水とか買ってこうかな。お店全体を眺めてみる。陳列にゆとりがあって廊下も広くて旋回もしやすそう。あと、レジが低い。でも、お客さんが多い。ちゃんと買い物できるかな。お水だけなら、またの機会でいいかな。店員さんがこっちを見た。ニコッと微笑む。僕が入ったら迷惑かな。迷惑かけたくないな。もし迷惑じゃなくても、やっぱり大変そうだし、どうしても欲しい訳じゃないし、またの機会でいいかな。うん、いいや。ゆっくり、中回りで旋回し、もときた道を戻る。僕は、いろいろと想う。部屋へ戻りながら。店員さんは迷惑なんて考えてさえいない、かもしれない。他のお客さんも、なにかあったら手伝ってくれた、かもしれない。とても平易に買い物ができた、かもしれない。ただただ僕が卑屈に世の中を眺めただけ、かもしれない。直前に、いろいろと(予想しない)善意に触れることができたにもかかわらず。卑屈になる萌芽などなにもなかったにもかかわらず。僕は、いろいろと思う。部屋に戻り、珈琲を飲みながら。ジムノペディ第1番を聴きながら。

思うところふたつ。universal designを否定するところ何もない。ハード環境がその様でなければ、そもそも向き合うことさえできない、のかもしれない。けれど、ハードが整っていればこそ、その社会の善意(的なモノ)に向き合う心持ちが求められる(気がする)。そして、その空間で関わり得る人がsocial consciousであればこそ、その社会的属人的善意に向き合う心持ちが求められる(気がする)。そしてそれは、決して容易なことではない。人には、そうした善意に向き合うことが難しい局面が在る、そのことを前提に、そのことまでを、そのことこそを、包摂できる社会でなければいけない。と。
もうひとつ、social consciousの向上を否定するところ何もない。けれど、地域には、街には、組織には、いろいろな人がいていいと思う。いないといけない、と思う。social consciousな(それが意図的に求められる)空間は、様々なchallengeが求められる人に対し、ある一定の力をかける、と共に、そもそもsocial consciousの低い(あるいは無い)人を疎外する、ことになるから。それはすでにsocialではないから。と。

見慣れない景色に見慣れてきた僕は、まもなく、元の視界に戻る。この10日余の体感は、僕の心と体に様々なモノコトを生じさせた。130㎝から眺める世界には、social inclusionを体現しようという試みと、それができていない沢山の現実があった。いろいろな人がいて、いろいろな心象が、自分自身を含め、あった。
そして僕は、社会制度としてのsocial inclusion的計らいよりも、その時々の偶発的属人的包摂に心地よさを感じた。包摂社会を夢想することができたんだ。