Responsibility その文脈

先日、パタゴニア日本支社長の辻井さんから一冊の本を手渡された。「coyote」。そのタイトルを「今こそ、パタゴニア。」とするNo.49をひらくと、創業者イヴォン・シュイナードのテクストに目が留まる。「パタゴニアは『サステナブル・カンパニー』ではない。『レスポンシブル・カンパニー』だ。私はパタゴニアが、責任ある企業でありたいと思っている。」同社のミッション・ステートメントは、「最高の製品を作り、環境に与える不必要な悪影響を最小限に抑える。そして、ビジネスを手段として環境危機に警鐘を鳴らし、解決に向けて実行する。」こと。そのミッションの遂行に、企業としての在り様に、responsibility(責任)を持つ。と。それは、パタゴニアが在れる理由であり、イヴォン・シュイナードが在る基なのだろう。
僕は、最近、とあるインタビューで、現在の自然環境に対する問題意識について問われ、「人を含めた自然総体が、人の営みがゆえ、その均衡を保てないでいると思っています。人が自然の一部で在ることを深く認識した上で、自らの在り様を眺め改め、自らの責任を全うする。それができない限り、自然の一体的つながり、自然と自然の一部としての人との連なりは裂け、自然が自然として在り続けることは困難であると思っています。」と応えた。「自らの責任を全うする」こと。それは、僕が、生きること、生き(るためにも)働くこと、と同義だと思っている。

いまから10数年前、僕は、EPR(Extended Producer Responsibility;拡大生産者責任)という法(論)理に向き合う日々を過ごしていた。環境問題を含め、企業の活動に、その有り様に求められるものとして、いまではすっかり(いい意味でも悪い意味でも)定着した感のあるCSR(Corporate Social Responsibility;企業の社会的責任)。CSRとは、文字通り、「社会的責任」が求められているのであって、その不履行や不適正履行に対し何某か罰則が用意されるなどの「法的責任」が課されるものではない。その点で、responsibility(社会的責任)とliability(法的責任)は全く異なる。に関わらず、producer(生産者≒いわゆる「メーカー」全般)のresponsibilityの領域を拡大(extend)させ、liabilityに近しい政策運用の実現を企図した野心的試みが、そのEPRだった。詳しいことは割愛するけれど、「環境に与える不必要な悪影響を最小限に抑える」モノづくり(Design for Environment)をこの社会で実現するには、なにより生産者にその後片付け(リサイクルや適正処理)の責任を課すことが社会コストミニマムであろうことは、1980年代からいわれ久しかった。しかしながら、生産者のつくった製品等は、購買という行為を通じ、その所有権が生産者から使用者(あるいは消費者)に移転する。そのため、同製品等の後片付けの責任(liability)は同所有権者に在り、生産者にはDesign for Environmentを為す社会的責任(responsibility)が在るに過ぎず、その生産者の不履行や不適正履行に対し罰則を適用するなど、法的強制力を課すことは難しい、とされていた(そのことは、原則、いまも変わらない)。しかし、個々人に後片付けの責任が課されても、その責任の履行は、納税⇔課税を通じた自治体におけるリサイクルや適正処理、というカタチを取らざるを得ない(個々人各々では履行できない)。そのため、なんらかのアンフェアさ(大量消費者と少量消費者、否消費者、環境にやさしい購買者とそうでない購買者が、それらに配慮した課税が為されるわけではないなど)が生じ、また、製品等の技術や情報を持たない自治体がリサイクルや適正処理を社会コストミニマムで履行できるわけでもない。事実、僕が過ごしてきた「大量生産・大量消費・大量廃棄」時代社会は、responsibilityの下、リサイクル率を上げることも、リサイクルしやすい素材の使用を増やすことも、そして、「環境に与える不必要な悪影響を最小限に抑える」モノづくりを行う企業を(購買や投資を通じて)評価することも、その歩を進められずにいた。そのため(いよいよ)、生産者のresponsibilityを拡大しliabilityに近づける、EPR政策の実現が求められ、同政策の法制化が進めらることになった。そして、僕は、その場所に身をおき、ただひたすら、生産者とされる大企業にEPRの本質を訴え、その法制化に理解を求めた。そしてそのいくつかは実現し、そのいくつかは実現しなかった。

ここまで読んでもらった人の中には既に気が付いてる人がいると思う。上述のEPR導入に向けた論理展開と、冒頭のイヴォン・シュイナードのテクストとが(EPRの政策的必要性とは別に)真逆に位置することを。われわれ、個人には責任がある、企業には責任がある。そこに、社会的、とか、法的、とかの差異はない。ただ、責任がある。その責任は全うしなければならない。全うされなければならない。でなければ、社会は、その社会の礎たる「かけがえのない地球(Only One Earth)」は、いずれ在ることができなくなる。のだから。法律が整備されたから、そこにサンクションが課されたから、responsibilityがliabilityに近づいたから、僕に、僕の在る企業に責任が生じたんじゃない。責任は、人がこの世に生を受けたその瞬間に、企業がこの世に創られたその瞬間に、既に在る。のだから。

いつもより長くなってしまった。けれど、最後にいま一度、イヴォン・シュイナードの言葉を綴りたい。「私はいつも行動で示したい。私の会社、パタゴニアもそうだ。私たちは、責任を持ち、行動する企業だ。」
僕も、僕たちも、そう在りたい。在るように、在りたい。

写真;パタゴニア (c)Copyright トム・フロスト