以て成す Hospitality

先日、島(海士)で人とホスピタリティ研究所代表の高野登氏の講演(×2)に同席(×2)する機会を得た。同席。司会でもなければ、ファシリテートでもなく、対談でもない。高野さんの話しを、島のみんなとほぼほぼ同じ立ち位置で聴きながら、少し(だけ)対話らしきことをし、少し(だけ)司会らしきことをし。ぐらいの、同席。その同席の際、強く感じ(入)る。高野さんの話しは再帰的だ。再帰的、が理解し難い言葉であろうと、他に表現しがたい、ので、ご容赦願う。要は、全体的本質の話しが部分的具象の話しと(いくつかの階層を経ることなく)直接つながっていて、全体の話しの理解が部分の理解に直接に影響を及ぼし、個別具対の話しが本質的理解に大きな影響を及ぼす、ということ(「要」を用いながら、まとめきれない旨、重ねてご容赦願う。)。階層の全く異なる話しが連続的に行き来する、その繰り返しが全体及び部分それぞれの理解に常に変化をもたらす、ということ(なお難しい。)。例えば、5つの階層があったとして、最初の話しが1→5、次の話しが4→2、1→3、5→1、みたいにランダムに、もっといえば、自由に各階層を行き来する。のである(例え話しなのに難しい)。より具体的に示すと、成長とは何かを話す場合、その具体事例を話した上で、同事例が成長につながる話しをするのが一般的である、が、高野さんは、具体的な話しをした後に、成長ではなく、心の(筋トレの)話しをしたりする。であれば、その具体的筋トレの話しのあとに、本来的心の在り様の話しをし、それが成長につながる、みたいな話しをするのが一般的である、が、そこで、今度はリーダー論や組織論の話をしたりする。のである。もちろん、全てはつながっている。そして最後の最後、何が出発点だったかわからなくなった頃に、「それが成長につながるんです」みたいにまとまる。こういうと、高野さんの話しは理解し難いの?と思われるかもしれない。が、決してそうではない(当前です)。このような再帰的な話しが終わったその時、成長とはなにか、心の筋トレがなんであるか、リーダーとはどんな人であるか、が、各々の説明により各々を理解するよりも、全体としてより深く、否、より広く異なるカタチで腹に落ちる、のである。そして、こうした再帰的な話しを、その時々整理しながら、その全体や部分を、司会的に説明したり質問を拾ったり、ファシリ的に要約したり尋ねたり、するのは、とても難しいのである(ホント)。

高野さんの話しが再帰的だ、ということを伝えたかったのでは(ここまで綴っておきながら)ない。最近、とかく話題となっている「おもてなし」、その「もてなす」の起源、が、「以て成す」である、ということ。「〜を以て〜を成す」ということ。おそらく、人をもてなす、お客様をもてなす、というシーンは、業種業態を、組織の規模を、社歴の長短を問わず、あらゆる仕事において極めて重要な、もっといえば、仕事に限らず、あらゆる人との関わりにおいてとても大切なシーンであろう。その「おもてなし」は、決して接客的シーンにおける丁寧な応対や振る舞い(だけ)ではなく、人に向き合い、その刹那に自ら何かを以て何かを成す、ということだと知る。
僕は、向き合う人に、その一会に、何を以て何を成してきたのか。そしてこれから、僕、僕たちは、何を以て何を成していくのか、成すことができるのか。大切な人に、丁寧に向き合う、失礼なきように、ではなく、だけでなく。自らが(意思も経験も含め)有するモノを以て、自らができることを丁寧に成す、向き合う人、その心の在り様に真摯に向き合いながら、丁寧に成す。決して少なくない仲間と一緒に、いまここでできることを以て成していきたい、と。
高野登氏との(在り難い)同席の最中、再帰的思考の螺旋の中で、そう思った。