Correspondence 森と都市 その暮らしの中における

先頃、丸の内朝大学にて、「トウキョウ森暮らし(全7回)」がはじまった。本講座は、ピクニッククラス上級編に位置付けられながら、森とともにある暮らしを思考体感する、それも@Tokyoで、というもの。「トウキョウ(という都市における)森(的な)暮らし」と、「トウキョウ(の)森(での)暮らし(的なモノ)」、その二つが同居する「トウキョウ森暮らし」クラス。コミュニケーションにポップな色彩を帯びながら、より本質的な問いを内包するこうした試みが、(読んで字のごとく)「在り難い」ことに、申込み開始、即、満員御礼、となった。そのことに、以前、このブログ・エッセイで紹介した(中沢新一氏の綴る)釣り堀の話し、「ぼくたちの心には、『自然』などどこにもないように見えて、じつは合理的な理性のつくりあげた住宅街の真ん中に、ぽっかりと『無意識』という暗い池が口を開いていて、そこから『自然』への通路が続いている。(中略)人間の心は、本質的に都市的なつくられ方をしているけれど、そこには『無意識』という釣り堀があって、暗い生命の欲望がへら鮒の様に、見えない水中を泳ぎ回っている。この『無意識』とコミュニケーションを交わしあうことによって、人間の心は『自然』の豊さを失わずにすんでいる。」という、「無意識」に「自然」へつながる人の在り様をみる思いがした。参加される40名の皆、それぞれ思い思いにクラスを選んだ(採った)こと間違いないけれど、そこには、東京という、世界に冠たる大都市に暮らすからこそ、(「自然」としての)森と相応する時空間を(意識・無意識に)探求する思いが通底している(と思う)。

林厚見氏との往復書簡、そこで彼は、街や家のことを、「空間と人間が、時間とともに呼応して変わっていくのがいい」と云う。この「呼応」する感覚は、街や家という空間においてもそうだけど、より拡く山海川里の空間が、そこに暮らし集う人々と、そして、人(工)総体としての都市空間と呼応することができれば、と常に切に想っている。そしてそう在れるならば、暗く鬱蒼とした森と無機的で荒涼とした都市とが切ないほどに同期する、いまここの絵姿は(少)なくなるかもしれない。
日本の(原生林を除く)多くの森は、何某かのカタチで人の手が入っている。それら森は、人の関わりの痕跡を残しながら、いま、人との呼応を無くそうとしている。人と呼応しなくなった空間は、森でありながら自然でありながら、不自然な空気を纏う。それは、「無意識」に「自然」へつながる「通路」を失いつつある昨今の都市空間と同様に、人という生き物にとって、暮らしにくい空間であること自明だろう。
だから、僕たちトビムシは、「東京の森で営みを為し、都市との連なりを興し、森(生態)と人(生活)の同期性を再現する。東京と云う同一空間における心的一体感を醸成し、空間的豊かさを形成する。」ために、東京・森と市庭を、先の林氏らと共に創った。そう、都市空間だけでなく、森林空間だけでなく、互いが相応し、かつて森の美しい風景と優しい町並みが同期していた頃のように、ひとつ東京という空間が豊かなモノとなるように。

その試みの一つとして、その小さな一歩として、「トウキョウ森暮らし」がはじまった。早速、第2回に皆で東京(奥多摩)の森へ入ることになる。最終第7回には泊まりがけで森と呼応する機会が用意されている。丸の内という、東京のまん真ん中で働く、その周辺に暮らす人たちが参加するこのクラスで、まずは参加者同士の呼応を愉しみに、そして、クラス全体と森との呼応を愉しみに、しています。

photo by 井島健至