無意識という釣り堀 a hera-crucian in a city

「7~8分ほどお待ち頂けますでしょうか」、そして、「淹れ上がりましたら、お席までお待ちします」とほほ笑む。(メニューにない)デカフェを注文する面倒くさい客(僕)に対し、嫌な顔一つせず、親切に向き合うスタッフ(の方々)。僕が訪れる15以上の店舗すべてで同様なことから、スタイルと云っていい(国内全店舗に拡大推計していい)であろうスタバ的日常、僕の日常がそこに在る。そもそも、嫌な顔をするしないではなく、多くのカフェがデカフェの注文を受け(れ)ない中、(読んで字のごとく)あり難いサービスを平易に提供してくれるスターバックス、その日常的営みとは別のシーンに大阪マルビル店で遭遇する。そこでは、淹れ上がったコーヒーを席まで運んで くれた後、「おかわりはなされますか」と愉しそうに嬉しそうに訊ねられる(のだ)。博多長浜ラーメンを食す時でさえ、ラーメンが運ばれると同時には替え玉をお願いしない(半分から3分の2ほど食した段階でお願いする)僕にとって、コーヒーが運ばれて即おかわりを約するは躊躇せざるを得ない。そんな僕の心持を知ってか知らずか(たぶん知らない)「お客様がいらっしゃる間はお取り置き(保温)しておきますね。もちろん、おかわりされなくても結構ですから」と愉しそうに嬉しそうに云う(のだ)。注文が極端に少ないデカフェ、アイスと異なり長時間保管の難しいホットは、(アイスと異なり)その都度、淹れるのが常である(おかわり分もその都度淹れる)ところ、大阪マルビル店スタッフの彼女は、こうした(おかわりの際に改めて7〜8分待たせることのない様に。何より彼女自身が愉しむ)振る舞いに終始する。そして、二度目の訪れ以降は、マグカップであることを覚えてくれて、さらに一杯目の待ち時間のためにミニカップのデカフェアイスまで用意してくれる(のだ)。これは間違いなく彼女の属人的振る舞いである(実際、他店でも、同マルビル店の他のスタッフからも同様の応対を受けた経験はない)。出張時に月一度(さらにシフトとの絡み上、彼女にとって2カ月に一度)も訪れない僕に対し、いつも変わらず、愉しそうに嬉しそうに。つまり、(残念ながら)僕という客への属人的振る舞いでもない。愉しく嬉しく振る舞うこと(こそ)が、彼女の日常なのだ(ろう)。彼女にとって愉しく結果的に(例えば、おかわりを訊ねる)お客にも喜ばしく、なのか、お客を愉しく結果的に彼女も嬉しく、なのかは未明なものの(恐らくはその双方)、合理的理性とは別の(人としての)自然な営みがそこには在る。そして、合理的理性を闘わせるまでの僅かな時間、その場所で、僕は朝の平穏を取り戻す(のだ)。

話しはまったく変わる(ようにみえる)が、日頃、大変お世話になっている中沢新一さんの著書、「アースダイバー」に、麻布界隈の釣り堀を紹介するくだりがある(第6章間奏曲/坂と崖下)。ご本人にも(僭越ながら)申し伝えている通り、そこに僕の大好きな描写(テクスト)がある。麻布というまったくを以て都市的空間にぽつりと在る(へら鮒のすむ)釣り堀をして、「ぼくたちの心には、『自然』などどこにもないように見えて、じつは合理的な理性のつくりあげた住宅街の真ん中に、ぽっかりと『無意識』という暗い池が口を開いていて、そこから『自然』への通路が続いている」とし、「人間の心は、本質的に都市的なつくられ方をしているけれど、そこには『無意識』という釣り堀があって、暗い生命の欲望がへら鮒の様に、見えない水中を泳ぎ回っている。この『無意識』とコミュニケーションを交わしあうことによって、人間の心は『自然』の豊さを失わずにすんでいる。」とまとめる。森と都市の同期を謳う僕らがこれほど共感共鳴し得るテクストが在るであろうか(いやない)、と思うほどの直截的(?)メタファーであるが、何が云いたいかと云うと、先のスタバ(大阪マルビル店)スタッフの振る舞い(が創る空間)は、僕にとっての釣り堀なのだろう、ということである。合理的理性のつくりあげた大阪という都市のど真ん中に、彼女の「無意識」、ただただ愉しみながら振る舞う(泳ぎ回る)釣り堀があって、その「無意識」とのコミュニケーションのお陰で、僕は(都市の真ん中で)、合理的理性では決してない、自然な何かを感じることができるんだ、と。そして、それは、まさに(コーヒー代として支払った)お金への対価ではない、贈与的なものなんだ、と。

スターバックスのことを綴ると、それすべて「スターバックス論」的になる(ことが期待される)が、本稿(というか、個人的blogのとある散文)はまったくそうではなく、とかく「あり難い」スターバックスのサービスの流れでありつつ、そしてスターバックスで為されているに関わらず、スターバックスのサービス自体ではない、極めて属人的な営み、もっと云うと、グローバルチェーンではシステム化し難い、合理的理性の範囲では説明し難い、それでいて都市の真ん中で出会うと、釣り堀の様に、「そこから『自然』への通路が続いている」感覚を想起させる「無意識」に愉しむ営み(贈与)が在る、という、至極私的で勝手な解釈、物語を綴った論考(というか、個人的blogのとある散文)に過ぎないことを改めて付し、筆を置く(上書き保存する)ことにしたい。
明日もデカフェを愉しむ、そのことを(意識的に)想いながら。

photo by 井島健至