Some kind of wonderful 深慮、再帰的な
高校生だった(ナイーブ極まりない)僕。が出会った(観た)映画のワンシーン。”The only thing I care about in my goddamn life are me and my drums and you”「アタシにはドラムとおまえしかないんだよ!」。邦題「恋しくて」。字幕は(たぶん)戸田奈津子。僕の大好きで大好きなメアリー・スチュアート・マスターソン演じるWattsが自分の気持ちに気づいてくれない幼馴染に発する(告る)台詞。ロックな彼女の”in my goddamn life”を、「アタシ」の一言に投影する感覚にもっていかれ、小遣いのほぼほぼ全てを部活後の飲食に費やしていた時代に、なんどもなんども映画館に足を運んでしまって。エンディングシーンの”You look good wearing my future”「ぼくの未来がよく似合う」というベタな台詞(とその訳)がよく似合う、(やっぱり)ナイーブ極まりない恋愛映画だったけど。なんとなく、その頃から言葉の変換(英語→日本語)に興味をもつようになって。といっても、翻訳家を志すとかそういうことではまったくなく。単に、好きな映画や好きな小説の好きな台詞、その原文と訳の関係が気になる(もちろん、映画字幕としての訳と翻訳本としての訳は、その求められる性質が異なるけれど)、そんな程度なものとして。
大学生だった(まだまだナイーブな)僕。が出会った(読んだ)小説のワンシーン。”I didn’t mean to be”「僕のせいじゃない」。邦題「大いなる眠り」。僕の大好きで大好きなフィリップ・マーロウの初登場シーンで、依頼人の娘との初対面、“Tall, aren’t you? “「背が高いのね」へ応えるマーロウの台詞(双葉十三郎の訳)。背が高いのは自らが意図することじゃない(確かにその通り!)ということを、ハードボイルドこれ極まりな一言に投影する感覚にもっていかれ、なんどもなんども(授業に出ずに)読み込んでしまって。で、ボロボロになった文庫本の代わりに村上春樹訳本を購入すると、そのシーンその台詞が「それは私の意図ではない」と訳されていることに驚いたりする。そんなことを繰り返し繰り返す。かつてのいまの、日常。
なんだかややこしい(性格の)ようにも思えるけれど、でも、いまもむかしもそれがとても心地よく。独和辞典でよく理解できずに独英辞典を引いたらしっくり理解できた、そんな時の心地良さと同じように。それは(認知言語学なんかでは説明不要な、あまりに当然のことかもしれないけれど)対象の意味することを、ちゃんと理解できた、と思える納得感なのかもしれない。ちゃんと向き合えた、と思える(自己満足的)充足感なのかもしれない。そうであれなんであれ、とても心地よい、僕にとって大切な、感覚。
同じ言語(間)であっても、意図したとおり伝わるとは限らない。伝えたいことを伝えたい表現で伝える(例えば、このエッセイのように)、そんな一方的なコミュニケーションから理解を導く手立ては、同じ言語(間)であればこそ、容易なことではないのかもしれない。実際に思いつくその手立ては、聞き手あるいは読み手による対象への常なる深慮、しかあり得ない。そう、その全体における部分として、その部分ゆえの全体として、(再帰的に)翻訳するような、とても(とても)注意深い作業が、同じ言語(間)にも必要なんだ。逆にいえば、異なる言語(間)では当然に求められる深慮を、同じ言語(間)では不要と勘違いしがちで、それが故、瑣末な大きな不理解を引き起こすのかもしれない。
自らの表現(そのシーンに応じた変容)は、自らの責任の下、伝えたいように伝えるとして、自らが理解すべき対象、その意図するところは、深慮に、真摯に向き合わなければいけないな。いついつの日も。そうできれば、そう在れれば、Some kind of wonderful いつもそこにある驚きな幸せに気づく、心地よい感覚に導かれながら。いついつの日も。
追伸 以前のエッセイに拝借した僕の大好きな映画、そのタイトル”Running on empty”(邦題「旅立ちの時」) は、いまだしっくりした(腹に落ちる)訳が思いつきません。何方か、(映画のストーリーに照らし)いい訳があれば教えて(共有)ください。
画像出典:Some Kind Of Wonderful – http://www.dvdactive.com/reviews/dvd/some-kind-of-wonderful-special-collectors-edition.html