Heating value 意志の伝播
夜の青山。そのとある空間で、我武者羅應援團の熱唱がつづく。「だから今 その後悔が 明日へ進む 力となる」。絶叫といっていい彼らの肉声は、もはやその詞の意味するところを歌い伝えるものではなくなっていた。彼らの熱量そのもの、意志そのものが、僕、僕たちを貫いていく。宴の終わり。「明日」のはじまり。
この日、僕は、遊識者会議なるものに参加していた。元の元はといえば、この会議の主催者(首謀者)である、ドッキーこと木戸寛孝氏からの声がけ。いつも面白おかしく語らう関係でありながら、諸事お世話にもなっている彼からのお誘い、否応なくその場で了承したものの、同会議のなんたるかは、その時点ではまったく分かっていなかった。いや、会議当日に遊識者の肉声を聴くまで、僕は、その本質を理解できないままでいたんだ。
そもそも、僕は、イベント(的なモノ)が苦手だ。苦手、というのは、企画主催することと参加すること、その双方が苦手、ということ。生来、フィジカルタフネスに富んだオタク、を標榜してきている僕は、人の集まりが苦手だ。人それ自体は苦手ではない、し、人と会話するのも苦手ではない、し、大勢の人前で話しすることさえ苦手ではない。ただ、(多少明確な目的があったとしても)なんとなく人が集まる場所でなんとなく愉しむ、のが苦手、なのかもしれない。だから、(多少明確な目的があったとしても)なんとなく人を集めることを企画するのも苦手だし、ましてや、その会をなんとなく盛り上げる(運営する)のは苦手どころではない。ので、講演会を含め、明確な目的を有する単発イベントはまだしも、連日に及ぶイベント(的なモノ)には参加することさえほとんどない。のに、当日午前中、往復書簡でお馴染みの中渓宏一と共に登壇、その後、後夜祭まで残ることを当然視する彼に巻き込まれるカタチで、その間にできた数時間を其の地で過ごすことに。他の会場も周りながら、他の「遊び人(アソビビト)」の声を聴きにまわる。「不確実性や矛盾をリスクとしてではなく『可能性の源泉』として捉え、その混沌とした渦の中に『遊び心』をもって飛び込み、そこから時代の扉を開いていこう!という思いをもった仲間」と括られるアソビビト。確かに業界や専門をまったく問わない(どころではない)、多様なアソビビトの姿がそこかしこに在った。そして、そんな多様な彼らにも共通点があることに気づく。人に話しかける、向き合う、その熱量の大きさ、だ。年齢も仕事(専門)も拠点もまったく異なるにかかわらず、そして、その話し方もまったく異なるにかかわらず、圧倒的熱量を以て人に向き合う、ことは、みな一様に変わりない。優しい表情で、しずかな声で話す人も、情熱的に、強いトーンで話す人も、誰もが圧倒的熱量を以て人に向き合う、人に向き合うその機会に真摯に向き合う、という姿勢には、変わるところどこもない。だから、参加者は、どんな内容の話しであっても、アソビビトの発する熱量、アソビビトを立たせる後ろに在るものの熱量を、強く強く感じ、その話す事象そのものではなく、その発せられる熱量に取り込まれてしまう。僕は、そのことを自覚した時、遊識者会議なるものが、連日に渡り多様な人と多様な事象に向き合えるようカタチづくられているその本質に辿り着く。ひとりの人やひとつのテーマに閉じ、それに閉じた人を集めるのではなく、非連続な人やテーマに啓かれた連続する機会を創ることで、「不確実性や矛盾をリスクとしてではなく『可能性の源泉』として捉え、その混沌とした渦の中に『遊び心』をもって飛び込み、そこから時代の扉を開」く人に通底する、その本質的本気さと人に向き合う真摯な姿勢、を浮かび上がらせることに在ったんだ、ということに。
爽やかな風吹く初夏の夜、2014年の遊識者会議は、我武者羅應援團の熱を帯びた掛け声、一本締めを以て幕を閉じた。そこで創り溜められた熱量は、青山という地の下に眠らされることなく、きっと会場を立ち去る皆それぞれが持ち帰ったに違いない。「明日へ進む力」として。
追伸 ドッキーこと 木戸さん、遊識者会議主催の皆さま この度は、素敵で面白い機会にお声掛けいただき、本当にありがとうございました。今後も、アソビビトの一員として、熱量を以て世に向き合って参りますので、引き続き、よろしくお願い致します。
画像提供:遊識者会議