風景を創るモノコト Tokyo social style

先日、新緑が眩しくなる途上、丸の内朝大学 東京森暮らしクラスのフィールドワークが奥多摩の森で行われた。昨秋からはじまった同クラス、二度目の開催となる今春も、自己紹介を兼ねた第一回講義@丸の内を受け、早速の第二回講義が現地(森)入り。その日は、きっと朝大生に晴れ男and/or晴れ女が居たのだろう、最高のピクニック日和となった(本クラスは、別名「ピクニッククラス(上級編)」でもある)。そんな晴れやかな週末、まずは、奥多摩駅前に集合し、僕たちが奥多摩の玄関口と位置づける(その準備を始めている)古民家で軽くブリーフィングをし、その足ですぐ、僕たち、東京・森と市庭の森(社有林)に入る。まだ若い(といっても、30年前後の)ヒノキの森を横目に歩き、一人ずつ慎重に小橋を渡り、成熟した(というだけに、80年前後の)スギの森を抜けると、光溢れ水透きとおる空間に辿りつく。ワサビ田。石畳でカタチづくられたワサビの森。「林業は光のデザイン」とはよく言ったもので、この20分の行程は平易にそのことを教えてくれる。最初の、若い木々からなる森は間伐もこれからという段階、で、鬱蒼として空間光量が少なく、必然的に下層植生(地面に近い空間の植生)が脆弱で土壌が露出しかけている。一方、人の手が入っている成熟した森には程好く光が入り、その心地よい木洩れ陽が下層植生を育み、全体空間を緑に彩っている。さらに、そうした森林空間のエアポケット、拓けたワサビ田には、眩しいほどの光が差し込み、照り返す水面のキラキラとワサビの葉の緑で一面が覆われている。もちろん、空間全体に注がれる光量は一定なわけだから、まさに「光のデザイン」によって、空間ごとに異なる光の取り入れ方がなされ、その植生を含め異なる全体空間がカタチづくられている。といったことを、散策、その中途に在る広場でのランチ、という、最もピクニックな体感(あと「間伐」という林業な体感)を通じて、身体で理解してもらう(ことを期待して)。
森を愉しんだ後は、旧小河内小学校へ移動、そこで僕の方から、水の、木の、森の、そうした森と共にある社会の、在り様、その全体構造のことを(ほんの少し)紹介。「(水や木や)森」と「都市(の暮らし)」は別の存在ではない、ということを。同期した、すなわち、共に在る存在、ということを。そしてそれは、機能的に補完しあう、という意味ではなく、森が廃れれば都市も荒涼なものとなり、森が豊かになれば都市も優しい空間となる、という意味において「同期」している、ということを。がゆえ、都市に棲まうからこそできることがある、都市において「森暮らし」をすることが、森だけでなく都市だけでもなく、森と都市、双方を豊かなものにすることにつながる、ということを。それらを、少し噛み砕いて、少しだけ駆け足で。でも、できる限り丁寧に(ある心持ちで)。そして、このクラスで最後に辿り着く、無垢な木を使ったモノづくり、それらを取り入れた暮らし、と、その先に在る風景、のことについても。少しだけ。個々人の森暮らしな日常が、生活シーンを変えるだけでなく、森と都市の風景を創る、ということについても。少しだけ。できる限り丁寧に(ある心持ちで)。
GW前最後の週末、都市の喧騒から離れた、でも東京な奥多摩。での森暮らしなひと時。

追伸 朝大学の皆さん。次回以降は、東京森暮らしを様々な角度から学びつつ、併せて、東京森暮らしを自分ゴト化するための準備もしてもらいたい、と思っています。そして、最後1泊2日のフィールドワーク@再びの奥多摩、では、その自分ゴト化イメージを、モノとコトで存分に現してもらいたい、と思っています。