事実の神様 primary information

目の前に座る、年間500回の講演を含め1200回の会合を熟す、あまりに多忙な人物は、そのあまりの多忙さから慢性化する疲労を他所に、真剣な眼差しでこう云った。「私は、事実の神様の奴隷なんです」と。

先日、僕は、『デフレの正体』『里山資本主義』などの著者、藻谷浩介氏との対談に在った。スケジュールがタイトでハードな同氏、次の移動先まで5分程にある人気少ない静かなカフェが指定され、その場所で僕たちは、いまの、そしてこれからの、地域の在り様、地域の視点からの国の在り様について話しをした。講義と講演の間に生まれた(創られた)2時間半弱、たくさん、とてもたくさんの話しを。
藻谷氏は地域をまわりはじめて四半世紀、いままで仕事で足を運んでいないのは(昔の令制国で云えば)隠岐国と壱岐国のみという。そして、その両国(島)でさえ、プライベートでは赴いているのだから、現在の基礎自治体レベル(市町村)は全て踏破していることになる。実際、藻谷氏の話しは、旧何々村、旧何々町、といった、現在の「地区」レベルの事柄が多い。自然、会話も、「それは飛騨の何地区ですか」とか、「津山の中でも阿波地区は」云々、と、あたかもそれが(知っていることが)当然のことであるように、普通に平易に、その地区々々のディテールを話題にする。もちろん僕たちも、「小村力」という場合、決して行政区としての「村」を言及限定しているわけではなく、人々が自分達のコロニーだと認識できる、そこでの営みを自分ゴト化できる、small villageを想定している。ので、自然、西粟倉村のような現に残る小さな村もそうであり、合併後の一地区でありながら、合併市(又は町)全体では自らをアイデンティファイできない、かつての小さな村(又は町)もそう。「小村(small village)力」だ。意識レベル、エネルギーレベル、マテリアル(循環)レベルにおいて、それらのスモールメリットを最適化する、ということを意識し、それが、グローバリゼーションにおけるスケールメリット追求力学から離れた、人(文化含む)や自然の多様性を担保できる唯一のカタチ、というのが、僕、僕たちの仮説。なため、藻谷氏の云う「里山資本主義」の(グローバル資本主義に対する)サブシステム論とは、其の点で大きな齟齬はない。ため、話題はある意味必然的に、個別具対の事例から、その全体構造への派生、へと、止まることなく続いた。
そして、僕たちは、僕たちの営み(小村力を高める具体的事業施策を為す僕と、数多地域を周りそこから帰納的にセオリーを構築する藻谷氏)の共通点に気がついた。一次情報にアクセスできる、ということ。一次情報にアクセスできる、その重要性に自覚的である、ということ、に。藻谷氏は云う、「私は、事実を知り、事実で考え、事実を云い(伝え)たい」と。「セオリーに事実を(無理やり)当てはめ、事実を捻じ曲げて解釈することだけは絶対にやってはいけない」と。そのためには、直接、地域に足を運ばないといけない。そこで一次情報を入手しないといけない。なぜなら、東京他の都市においてアクセス可能な情報は、既に、何某かのカタチで加工された二次情報三次情報だからだ。そのため、藻谷氏は自らの意志と足で移動する。車を多用し、直接の目的地(例えば講演を行う場所)へ赴く間に寄り道する。視察として、いい場所ばかり案内されるのでは決してアクセスできない「事実」に触れるために。さらに、市町村別の転入転出者数を毎年確認把握している。決して、「あの地域は盛り上がってるよ」「あの地域はもう終わった」といった加工情報(でさえない、印象レベルの諸発言)に躍らされることないように。自らの意志と足でアクセスした未加工情報のみで考える、という面倒くさい作業を続けているんだ。昨日も今日も、そして明日も。きっと。

16時30分終了予定だった対談は、16時45分にまで及んだ。次の講演は17時から。移動時間5分+PC起動・準備時間5分。途中、お手洗に寄ることでもあれば、ジャスト17時。そんな刹那的な働き方、否、生き方に在る藻谷氏は、僕との近い再会を約しながら、焦ることなく立ち去った。そして今もどこかで、事実の神様に忠実に向き合っているに違いない。

追伸 藻谷浩介様 先日は本当にありがとうございました。対談は、近く、このブログで紹介させて頂きます。また、今夏のニシアワー来村、そこでの再会、とても愉しみにしています。できれば、前泊いただき、森の恵みを食した後、みなで、ヒメボタルを観にいきましょう。天の川とヒメボタル、本当に綺麗ですよ。