Tokyo 在り続けるための

46.14%。先の東京都知事選投票率。その数字は過去三番目の低さだという。とはいえ、投票率の低さそれ自体が問題なのではない。例えば、僕が選挙権を有する地域(島)では投票率80%超えがほとんど(たびたび訪れる他の中山間地域でも間々みられる現象)。でありながら、「高い投票率≒未来をデザインする意思、社会にコミットする意思の現れ」とは言い難い。事実上、保守政党以外の選択肢が(地域社会文脈において)無い中での惰性的虚無的姿勢の現れ、ともいえることだから。いずれにしても、(繰り返しになるけど)結果としての投票率云々が問題なのではない。選挙前から既に在る、確実に在る、閉塞感。自らが選挙権を行使するにせよしないにせよ、予想される当選者を変えることはできない、ましてや社会を変えることなんてできない、という諦めに覆い尽くされる、鬱屈。(それらを打破するために選挙権を行使するのではなく)そもそも、それら閉塞感や鬱屈を感知(直視)することの回避行動として、無投票や、思考することないままの投票、が在る。それこそが問題なんだ、と。
僕は以前のブログで、Sustainabilityに対する社会的無関心について、「いまの社会構造が(おそらく、地球環境的文脈に限らず)持続可能でないとして、何を何時までにどうしたら持続可能になるのかわからない、否、持続可能社会というものがそもそも何だかわからない、イメージできない、だから、みなで何を何時までにどうしたらいいかわからないし、ましてや個人で国や地球の構造に影響を与えることなど一層未明だから、結果的に持続可能社会なんてことを考えることも(行動することも)やめてしまう、思考の枠の外にそっと置いてしまうんだ」と綴ったけれど、今の(社会構造の)ままでは、地域社会とか国とか、あるいはその未来の在り様とかを真剣に考える機運はより希薄化していく、と思う。なぜなら、グローバリゼーションとは(ざっくり云えば)社会を全体化均一化していくある種の運動であって、同全体化均一化の力学は、地域社会や国が保持できる固有性を、そこに棲まう個人が発揮できる個性を薄める方向に作用する、からである。それに抗う術は、否、グローバリゼーションは世界的時代的所与であるとして、同力学と共存可能な術は、マイクロな運動の精緻化、その有機的連携しかない、というのが、僕の、僕たちの仮説であり、同仮説の表象が「小村力」である。地域社会(≒small village)という、とても身近な、それぞれがつながりを覚える、深くて強い関係性、そうした時空間に身(と心)を置くことではじめて、人は社会の在り様を真剣に思考することができる、と。そうした個人の主体的思考性を突き動かすような、魅力ある誇りある優しい(時に厳しい)地域社会が、グローバリゼーションがゆえ、在れないといけない、在り続けなければならない、と。

自分自身が、巨大かつ強大な東京都政に(間接的であれ)主体的に関与する、ということにリアリティを感じない、ましてや、東京都政を通じた国政への影響などいうまでもない、というのが、今般無投票に通底する、共通する思いではなかったか。であればこそ、特別区や市町村、そこかしこの「小村力」を高める運動こそがまずは必要で、同時に、そこかしこの「小村力」をつなげ高める有機的連動が必要となる。そして両運動の結果、地域社会でできることできないことを浮き彫りにすることではじめて、東京都政に対する本来的要望が、同要望を実現し得るリーダー(都知事)像が明らかになる、リアルになるに違いない。
今般都知事選を通じた社会機運に触れる中で、「個々人が、自らが暮らす地域(コミュニティ)の豊さや希少さを実感できる、逆に、将来不安も持続困難さもリアルに感じられる、がゆえ、自らの暮らしとその暮らす地域の持続性(持続困難性含む)を想像する、自らの地域での役割や責任を認識する、そのような主体的思考(に基づく自立的運動)こそが持続可能社会を想像(し創造)する萌芽なんじゃないか、礎なんじゃないか」と、改めて、強く(強く)思った。
鬱屈した閉塞感に苛まれている暇なんてどこにもない。

画像出典;
http://google-earth.toru.com/tokyo/tokyo_metropolitian_government.html