Constitutional intentions 七世代の掟
解釈改憲が閣議決定で為されようとしている。その意味するところは、憲法解釈は政府の意思で変更し得る、ということではない。日本国憲法がいわゆる(近代)憲法ではない、即ち、日本は立憲主義ではない、ということを宣言するに等しい。僕は(もちろん)憲法の専門家ではない。学生時代、芦部憲法と佐藤憲法のどちらがわかり易いか、などと云っていた輩に過ぎない(佐藤派)。そんな僕でも、そもそも憲法は法典化される必要さえない、ということを知っている。日本国憲法のような成文憲法に対するイギリスの不文憲法がそれだ。その意味するところは、憲法がない、ゆえに、憲法解釈がない、ということではない。憲法的規律を有する一般法(例えば人身保護法)が容易に改正できる、解釈変更できる、ということでもない。目に見えない憲法、即ち、連綿と続く憲法的なるものへの国民の意思、立憲意思、その蓄積する判例慣習法他に反する解釈はそもそもできない、ということだ。ここで重要なのは「連綿と続く」意思に基づく、ということ。即ち、時の政権が圧倒的多数の議席を背景に変更できるものではない。もっといえば、世論のほとんど(例えば99%の国民)が解釈変更を(その瞬間)望んだとしてできることでもない。過去から現在、そして未来へと続く、つなげようとする国民の意思の発露に基づいて、はじめてできる、はじめて議論できる、それが、成文不文を問わない(近代)憲法というものであり、そうした在り様を尊ぶのが立憲主義だ(と思う)。それが、先達が在った、僕たちがいま在る、未来の子供たちが在り続ける、日本という国(体)を支え示す憲法の在り様であり、憲法への向き合い方だと、僕は信じている。
管啓次郎氏の著書(野生哲学)に、「七世代の掟」というものが紹介されている。アメリカ・インディアンのイロクォイ族。彼らは部族会議を開く際、「何事を取り決めるに当たっても、我々の決定が以後の七世代にわたっておよぼすことになる影響をよく考えなくてはならない」と誓い合う。そして、七世代先の、200年以上先の未来を思い描きながら、いまここにおける諸問題を語らい、未来に対する重要な責任ある意思決定を為す。本当にそうだ。僕たちも、本当にそう在らなければならない。
僕たち、トビムシは、そのミッションに、「人々の連綿たる想いをつなぎ 世の流れを創造する」という一文を有している。その土地々々、過去から未来へと続く、つなげなければならないものに、その時々、眼前に現れる利害得失では決してない、目に写らない意思というものに、丁寧に向き合いながら。森と共にある社会創りを、と。「我々の決定が以後の七世代にわたっておよぼすことになる影響をよく考えなくてはならない」と心に誓いながら。
画像出典;http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:English_Bill_of_Rights_of_1689.jpg