gift 普遍的なるもの
「この世で唯一普遍的なものではないか。」ある晴れた冬の日、とある光景を眺めながら、管啓次郎氏がそう呟いた。
奥多摩、鳩ノ巣の奥まった森の中に在る、天目指(あまめざす)集落。そのあまりに神話的な名の空間に、17世紀、江戸時代から続く加藤家、富男さん、勝代さんご夫婦の棲家がある。確実に残る資料範囲に限定しても築318年になるその建屋は、門を潜り眼前に現れた刹那、訪れる者を包摂する。その場所へ、管啓次郎氏、山本俊哉氏、そして明治大学両ゼミの学生たちが訪いを入れる。残念ながら、富男さんは森の仕事で不在にしていたけれど、勝代さんは、いつもながら、元気に明るく、そして優しく、僕たちを迎えてくれた。「さあさあ、なんにもないですけど。」と、柚子茶、柚子菓子、柚子味噌をふんだんに振る舞ってくれながら、「柚子、今年は当り年だったのよ。さあ、召し上がってくださいな。なんにもないですけど。」そう嬉しそうに、この日の僕たちを包摂してくれる。
包摂。在り続けてきた空間に、連綿と続く加藤家の「以て為し」に、そしていまも平易に在る勝代さんの心持ちに、ただただ、包摂される。その後、「みなさん、裏山で柚子をとったらいかがかしら」という優しい誘いに引き寄せられ、僕たちは、勝代さんの背中を追いかけながら裏山を登る、と、そこに、素敵な坂畑がある。その深緑の中に鮮やかな黄色が彩る。柚子だ。ついつい、みな子供のように、柚子をとることに、とった柚子を籠に入れることに、夢中になってしまって。でも、この優しい場所から、そろそろお暇しなきゃいけない。その時、勝代さんが、「みなさん。柚子、持って帰ってちょうだいな。ひとり7個ずつだけだけど。」といって、柚子をもってきてくれる。二度と会うことはないかもしれない、会ったとして、会ったことを覚えていないかもしれない、そんな17人全員に。最後の最後まで、お別れの刹那まで、優しい笑顔で振る舞いを続けてくれる。それはとても在り難い、読んで字のごとく、在ることが難しい、昨今の東京ではすっかり目にすることのなくなった、優しい光景だった。東京の、奥多摩の奥の奥に在る天目指集落、木と薪と炭に囲まれた森の暮らし、その中に在る、大切なもの。「この世で唯一普遍的なもの」。
人を「祝福を贈るもの」と定義する人がいる。人の本来の在り様は、普遍的な営みは、きっとそうなのかもしれない。そして、僕は、誰かから祝福を贈ってもらうことで、自らがこの世に存在する意味をはじめて理解することができるんだ。「私は何者かによって贈り与えられたもの=being given」として。それこそが、眩しい陽射しに手をかざしながら、この日、僕が本当に贈り与えてもらったものに違いない。