刻まれる時の中に在る Happiness

以前、僕の年上の友人(彼は、僕を「年下の友人」と云う)が彼のお父さんとお母さんの話しをしてくれた時のこと。1920年代後半、貧しい日本を貿易で立国させようと奮闘する商社マンのお父さんは、単身、アメリカへ旅立った。その後まもなくして、お母さんも船で渡米することに。横浜から2週間を要するサンフランシスコまでの渡航。その2週間という時間の中で、彼女は英語を覚え、そしてダンスをはじめ、渡航先で必要となる社交の術を身につける。わずかな外貨しかもたない国が、企業が、人を外国へ送り出す以上、今とは比べ物にならないほどの成果が、事業収益的成果はもちろん、大きな社会的(政治的)成果までが求められていた時代、様々な局面で上質なコミュニケーションが夫のみならず妻にも必要とされる中で、彼女は渡航の最中にその礎を体得したという。後々、息子(僕の年上の友人)に彼女はこう云った。「あの2週間の船旅は本当に素晴らしい時間だった。いろいろなことを愉しく学びながら、気がつくと太平洋を渡っていた。みれば、ニューヨークから大陸横断鉄道で迎えに来てくれた夫が桟橋に立っていて。今のように飛行機ではなく、長く時間がかかったからこそ、渡航前にあった沢山の不安は消え、二人にとって素敵な出来事に沢山であえる、そう思うようになっていたの。」僕の知る、短ければ短いほどいい「移動時間」とはまったく異なる時の刻まれ方が、そこに在った。
以前、あるトビムシの支援者がはじめて西粟倉に来てくれた時のこと。彼は、森をみて、森の恵みがカタチ創られる空間をみて、そして森の恵みを食して。そしてその翌日、ようびの大島くん(のことは、いつかちゃんと綴りたいと思う)の工房へ赴き、その作品に触れ、その思いに触れ、その場でテーブルと椅子の製作(制作)を依頼することに。真摯に、丁寧に、本来のモノづくりを為しながら未来の風景を描く大島くんが、喜び御礼を述べながらも、納品に9ヶ月程の時間を要する旨、恐縮しながら伝えると、彼は笑顔でこう応えた。「よかった。それなら、納品までにあと1回か2回、西粟倉の森に来ることができますね。もしかしたら、娘も連れて来ることができるかもしれない。その方が、わが家に机と椅子が届いた時の喜びが増しますよ。」僕の知る、短ければ短いほどいい「納期」とは全く異なる時の刻まれ方が、そこに在った。

先日、僕の大好きな写真家が、大阪福島の焼鳥屋で呑み語らう最中にこう云った。「何百年もの時を経てつくられてきた山や川の風景を、たかだか僅かの時間、名古屋への移動を短くするために壊すなんて本当に馬鹿げている」と。人の時間短縮の欲求は、東京オリンピックにあわせ整備された新幹線では飽きたらず、リニアモーターカーという新たな次元の移動手段を生み出そうとしている。かつて新幹線ができる前に4時間かけて移動していた東京−名古屋間は、いまや1時間40分で辿り着く。それを更に1時間縮め、40分で走らせようとする、いまここ。その路線の86%をトンネルにすることで。そのトンネルのため、山を削り様々なものを傷つけ失わせることで。
速(早)さを求める、時短に価値を見出す、そのこと自体を否定しようとは思わない。ただ、時を刻まなければ発現しない豊かさがある、刻んだ時の中にしか在れない幸福がある、そのことを、僕たちは決して忘れてはいけない、と思う。近代、グローバリゼーション、その時々、より一層の効率が求められる変遷の中に在るからこそ、強く強く、そう思う。

画像出典;http://www.nagasaki-np.co.jp/news/k-peace/2013/07/17093527.shtml