Winter in Tokyo Forest 人なきとこに人あり

睦月。養沢の森。ここは、古くから山岳信仰で名高い御岳山への南側入口。標高900mを超える山へ登り上がる行程、奥多摩ほどではないにしろ、いわゆる林業地としては急峻な、鬱蒼と針葉樹の森が連なる。そこに、趣と威厳を備える古民家が在る。その主であり、養沢の中心的林家でもある、ひとりの山主に、とてもとても久しぶりにお会いする。そして、日向の縁側でお茶をいただきながらお話しする。「久しぶりね」、「養沢は本当に人が少なくなってしまって」、「でも、森は手を入れ続けなきゃいけないから、いま、熱心に山の手入れをしてくれる人に、他の山主の人たちにも呼び掛けてもらっていて」、「みんな一緒に、その人に山をみてもらうことにしたの」、「竹本さんにその人を紹介したいわ」、「いま、電話してみようかしら」、「あら、居らしたわ」、「いまからうちへ来てくれないかしら」。なんて話しになり、その熱心に山の手入れをしてくれるという、いわゆる森林施業を行う人(伐採する人and/or伐採の計画をたてる人)が、縁側の語らいに加わる。そこで、森の集約化(それぞれの山主が個々別々に所有する山の施業管理を一体化していくこと)の難しさや、木材の搬出(切った木を森から出す)頻度、それを事業採算ベースに乗せることの難しさなどなど、について、実際に養沢の木を切っては出すその人の話しを聞いていると、「そうね、集約化は大変よね」、「山に対する考えは人それぞれだから」、「だからこそ、考えの近い人同士が力をあわせないと」、「そうね、養沢の山主のひとり、地元の重要な人にも、折角だから来てもらいましょうよ」、「いま、電話してみようかしら」、「あら、居らしたわ」、「いまからうちへ来てくれないかしら」。なんて話しになり、地元の重要なその人も、その語らいに加わる。その重要な人の棲まう集落は、養沢で最も山に近い、御岳山の入口も入口、上養沢にあるらしい。そして、その人の棲まう家から四駆の軽トラで、かつ、その道に精通した者の運転でないと上れない林道(的な道)の終点に、かつて旅館を営んでいた空間があるらしい。そこは海抜700mぐらいの場所で、とても眺めがいいらしい。「折角だから、皆でそこに行ってみましょうよ」、「ぜひ、案内してくださる」。なんて話しになり、彼の地へ皆で赴くことに。確かに。四駆軽トラである必然性は、パワーだけでなく、車輌サイズ的にもマスト(ギリギリ)であり、運転の上手さだけでなく、その道を熟知したものでなければ、決してコーナーを曲がりきれず、一度止まってしまっては登り切れない、という山道。そんな道(坂)を一気に駆け上がった先に、かつて旅館だった荘厳であったろう建屋と素晴らしい眺望が、在った。「まあ、美しい景色」、「旅館の前はここに住んでいたのかしら?」、「そう、あなたがご家族で住んでたのね」、「お母様はお元気?」、「あらそれは良かった。久しぶりにお会いしたいわ」。なんて話しになり、その地元の重要な人の家にお邪魔することに。狭く急峻な坂は、上りよりも下りの方がはるかに難しい(というか、危ない、怖い)、ということを体感しながら、そんな道(坂)を一気に駆け下りると、そこにお目当ての家が、在った。そして、その地元の重要な人のお母さん(一般的意味におけるオバアチャン)と奥さんと会う。そして、僕が自己紹介をしようとすると、「この人は林業や木工で商売してる人なの」、「しかも、とても変わっていて、お住いは隠岐の小さな島なんですよ」、「そこは島なのに水が豊富で、自然だけでなく食も豊かなんですって」。なんて話しになり、そのふたりも語らいに加わる。すると、その家のお母さん(一般的意味におけるオバアチャン)が大相撲の隠岐の海の大ファンだということが発覚。「隠岐の海は強いけど、最後の粘りが足りないのよ」、「それは、そんな豊かな島で育ったからじゃないかしら」。なんて話しになり。
気がつけば、お昼前に二人ではじまった語らいは六人に増え、山深い日の短い集落ではすっかり日も暮れてしまって。

僕、僕たちは、なんだか、いつもいつもこうしたことをしている。してきている。養沢という集落のあるあきる野(市)、そして、東京・森と市庭のある奥多摩(町)、そしてそして、養沢の西で奥多摩の南にある檜原(村)。東京の森、その在る市町村で、人が減り続ける山間(過疎)地域で、僕、僕たちは、これからも、こうした素敵な出会いの機会を、優しい語らいの時間を、もっていきたい。そんな出会いと語らいのずっとずっと先に、東京という空間全体の、豊かで美しい未来が在る、その全景につながることを信じて。

photo by 井島健至