Way of life 同じ病にかかる面々

弥生、優しい春の陽気に包まれる日曜の日に、第1回木育サミットは開かれた。この日、東京学芸大学芸術館(学芸の森ホール)に400名もの人々が集い、木育というものを、暮らしの視点、教育の視点、ビジネスの視点、そして地域の視点で、午前午後と語らう、まさに「サミット」という冠に相応しい大会。僕は、午後の部、セッションⅡ:川上と川下をつなぐ木育ビジネス、に登壇させていただいた。そのオープニング、会場のやや暗い照明の影響か、緊張と興奮の入り混じる声で、同セッション座長(司会)の若杉浩一氏が第一声を発する。「みなさん、こんばんは」。会場爆笑(まだ昼過ぎだよ)。お陰で、ご本人はもちろん、登壇する僕らも肩の力が抜ける。その後、登壇者みなが、川上と川下をつなぐビジネスシーン、そのほとんどの苦労と苦悩、そして幾ばくかの幸福について語らった。その幾ばくかの幸福さえ、たまたまタイミングが良かったり、たまたま良縁に恵まれたり、と、一般解化できたわけでもなければ、拡く社会に受け入られたわけでもない、その刹那、目の前の人に喜んでもらえた、という(ある意味で、独りよがりの)実感に過ぎない。にかかわらず、近い将来、自分たちの営みが(社会)価値認識にまで昇華するかは全くわからないにかかわらず、その信じるところに従い、木(森)に向き合う、苦労と苦悩に向き合う日々を過ごす(ことのできる)在り様を、若杉氏はこう表現する。「僕たちは、みな、同じ病にかかってるんです」と。大沢在昌の描く探偵、佐久間公は、「探偵は職業ではない、生き方だ」というけれど、確かに、こうした日常を過ごす姿勢、あるべき(と思しき)社会への向き合い方、は、職業観でないことはもちろん、「働き方」でさえなく、「生き方」に近しいのかもしれない。そしてこの日、若杉氏に「生き方」の同士と認められ、そのことに僕は(素直に)幸福を感じた。この幸福感のお陰で、いま暫く、大変で大変な日常を生きていける。そう、まるで、この記念すべき日を包み込んでいた春の陽気のように。明るく穏やかに。

僕は、この日の配布パンフレットに掲載するものとして、以下のメッセージを綴った。
「木(森)と子供は、よく似た存在だと思っています。先達の存在がなければ自らが在れない、当初とても手がかかる(面倒をみてあげないといけない)、成長に時間がかかる、それだけにとても愛おしい、などなど。木(森)も子供も、存在そのものが過去と未来をつなぐ、その一時点として『いまここ』に在る、ということ。そうした尊く刹那的な自ら(木と子供)の在り様を概念的に伝えるのではなく、自然に感知する、自然なまま心と身体に投影する、ことができるのが、広く「木育」といわれるものであると思っています。それは、未来を彩る子供たちにとって、そうした子供たちのそばに寄り添う大人たちにとって、とてもとても大切なことだと思っています。」

「未来を彩る子供たちにとって、そうした子供たちのそばに寄り添う大人たちにとって、とてもとても大切な」木育、その大いなる可能性としてのウッドスタートを、すでに行われている自治体版だけでなく、企業の主体的参加を組み込むかたちにリデザインする、と、本サミット総括の場で、主催者である(日本グッド・トイ委員会理事長、東京おもちゃ美術館館長の)多田千尋氏が、その意志ある声で伝播した。新しいウッドスタートのかたち。その道のりは決して平易なものではないかもしれない。それでもやはり、この日、学芸の森に集った同じ病にかかる面々は、たった僅かの、ほんの幾ばくかの幸福感を胸に、その歩を進めていくことができるんだ。そう、まるで、この記念すべき日を包み込んでいた春の陽気のように。明るく穏やかに。

画像提供:http://goodtoy.org/ms2014/