Endless summer 已むことなき衝動

今年も夏が終わる。生来、肌が弱く、日差しにも暑さにも(滅法)弱い僕は、正直、夏が苦手だ。一方で、冬へ向け気温が下がり始めることへの先天的(生き物としての)怯え慄きなのか、夏の終わりは寂しいものと刷り込まれた後天的情緒性なのか、一日一日が短くなることへの実感に、その時々の風景がやたら感傷的に映ったりする。安堵と寂寥の同期する刹那。夏の終わり。

熱射と酷暑が去るのを座して待つ、そんな僕の夏の日常にも、常でない出来事、夏らしいおもひでがなくもない。その日、建築家(オンデザインパートナーズ)の西田司氏の誘いを受け、お目当ての(同氏の関わりある)ビーチハウスを(野郎同士で)訪れた。他の湘南のビーチとは異彩な空気を纏う、葉山一色。そこではまず、海の家にも多様性があることに(素直に)気づかされる。実際、いわゆるトタン屋根に畳敷きな海の家をみつけると、そこにむしろ個性を感じるほどだ。そんな多様性豊かな海岸に、ひと際目を引く真っ白な空間が在る。カフェド ロペ ラメール。僕の生まれた翌年に表参道にできた伝説のカフェ、Café de Ropé(カフェ ド ロペ)を、いまここで(かつ夏限定で)アレンジ再現したもの(らしい)。そうしたことよりもなによりも、夏だけでなく海の家的なものが苦手(人でごった返す、狭く忙しく煩わしい空間イメージ)な、そんな僕が心地よくなってしまう、なってしまったことに驚かされた。事実、夏ならでは海の家ならでは、な要素が消されていないにかかわらず。
そもそも、ここには海にくる人よりもこのビーチハウスにくる人が多い(と感じる)。海に遊びにきた人が、すいた小腹をうめるため渇いたのどをいやすために海の家を使う、のではなく、カフェド ロペ ラメールを愉しみにきた人たちが、海をついでにながらに愉しむ、そんな感じだ。
白くて広い、木の質感伝わるゆったりとしたつくりに、ソファーでゆったりなエリアもあれば、ハンモックでゆったりなポイントもある。そして、地元野菜をつかった綺麗な本格派フードやフレッシュなドリンク、豪華DJによる本物のサウンド。And so on. 最後に海の家へ訪れてから10年以上経つ僕にとって、浦島太郎よろしく、その空間の在り様すべてが驚きの連続で、目から鱗がボロボロ落ちる。
そもそも海の家は、営業日で正味2カ月(弱)、しかも天候に大きく左右される、短期回収必須型ハイリスク(少なくともミドルリスク)の商いだ。そのため、建設組み立てに要するイニシャルコストを極力低くし、運営に係るランニングコストも極力低くする、結果、いわゆる海の家な外観と内装、サービスになることが常。にかかわらず、「にかかわらず」×複数な空間&サービスを演出、多くの人を愉しみ喜ばせながら、カフェド ロペ ラメールは3度目の夏を迎えていた。
僕は、西田氏に頼んで、店長(共同運営者)の小山匡志氏を紹介してもらった。この日感じた多くの驚きを伝えつつ、なかでも最大の驚きだった、海の家をここまでしてしまう、海の家でここまでしてしまう、その理由をどうしても聴きたくなって。小山氏は、祭りの真っ最中、そんな高揚(感)を放ちながらこう云った。「(カフェ事業を長くやってる)自分にとって、海の家は(大切な)表現行為なんです」と。毎年、夏の終わりとともに虚脱憔悴するにかかわらず、また訪れる夏のはじまりとともに、自己表現、という衝動をとめることができなくなる、と。
僕たちも(本当に)多くの場面で、「なぜ、ハイリスクでリターンがほとんど期待できない、もっといえば、みなが絶望しているような林業木材業を(実業で)やろうとするのか、やってるのか」と聞かれる。もちろん合理的説明が可能なこともたくさんあるけれど、その元の元の意思判断の起源については合理的説明などできはしない。できるはずもない。
衝動が(衝動「的」でなく)衝動である以上、先天的生物的なものに由来する(はず)。夏という、太陽の光が燦々と注がれる季節に、あるいはその到来の気配に生じる衝動は、最も自然なものなのかもしれない。カフェド ロペ ラメールの空間に、海では(得られ)ない何かを求め訪れる多くの人たちも、ある夏の日の衝動に掻き立てられているのかもしれない。

Endless summer, 小山氏をはじめとする葉山一色で出会った多様な個が生み出す運動(体)、その衝動は、夏の終わりとともに休息を迎え、いつの日か必ず訪れる夏の気配に目を覚ますだろう。それは決してひと夏の終わりでは終わらない。已むことなき衝動。

画像提供 Café de Ropé La mer